※自分語り多めですので苦手な方は読まないことをおすすめします。
「この子は絶対に売れる!」
ある日、テレビを見ながら母が目をきらきらさせて言った。
そこに写っていたのが、浜崎あゆみ。
1998年。私は当時、小学生だった。
「ふーん、そうなんだ」
最初はそんなに興味がなかった。
が、母がレンタルショップで借りたCD―もちろん浜崎あゆみ以外もたくさんあったが―をカセットテープに録音したものを聴いていたので、自然と彼女の曲は耳に入ってくる環境だった。
TO BEをきっかけに浜崎あゆみにはまっていった小学生~中学生時代
桃の天然水のCM曲だったこの曲に、私は相当にはまった。
カセットテープに録音されたこの曲を、擦り切れるほど聴いた。
曲が良かったのはもちろん、歌詞がものすごく良いことにここで気が付き、彼女が曲を出すたびにどんどんのめり込んでいった。
「誰もが通り過ぎてく気にも止めない どうしようもない
そんなガラクタを大切そうに抱えていた
周りは不思議なカオで 少し離れた場所から見てた
それでも笑って言ってくれた“宝物だ”と」「ガラクタを守り続ける腕はどんなに痛かったことだろう
「TO BE」 作詞:浜崎あゆみ
何を犠牲にしてきたのだろう
決してキレイな人間(マル)には なれないけれどね
いびつに輝くよ」
彼女は、人の葛藤や孤独、心の中のもやもやを表現するのが本当にうまくて
小学生~中学生の多感な時期を生きていた私は本当に心を鷲掴みにされていた。
見た目はお人形・天使のようにかわいらしくて、金髪ショートのときはかっこよくて、
そしてそのキラキラした見た目からは想像もつかないくらい、人間の暗い部分を歌っている。
特に歌詞の言葉選びが私の好みだった。
もちろん歌も上手だと思った。
憧れそのものだった。
このころ叔母がくれたポスターはもったいなくて貼ることができなかった。
今も実家に、丸めたまま残っていると思う。
アルバムのDutyは最高だった。
自分が聞いた中では一番いいアルバムだと思っている。
今聞いてもやっぱりいい。Vogue、Far Away、SEASONSが絶望三部作と呼ばれているのはこの当時はまったく知らなかったが。なんていったって他にも暗い歌詞はたくさんあったから。
タイトルは全部英語だったから、辞書で一生懸命調べたのも懐かしい思い出。
Duty(義務)、Vogue(流行り=いつか終わる)、End of the world(世界の終わり)、SCAR(傷跡)…タイトルだけでもダークさがにじみ出ている。
ダークな歌詞が、恋に悩み、友達付き合いに悩んでいた思春期の私にはすごく刺さった。
高校生になって浜崎あゆみの曲を聴かなくなっていった
高校生になって、彼女の曲はどんどん聴かなくなっていった。
バイトを始めたり、あほほどゲームに明け暮れたり。
中学生時代に比べて、ちょっと悩みが減ったのもあるかもしれない。
I am…まではアルバムを持っていたが、RAINBOWは買わなかった。
シングル曲は聴いていたが、アルバム曲は全くわからなくなってしまった。
そうして高校3年くらいから、音楽すらほとんど聴かない時期に突入していった。
あれよあれよという間に社会人になり、テイルズオブエクシリアというゲームで久しぶりに浜崎あゆみの曲を聴き、いい曲だと思ったが、そこからまた別の曲を聴こうとはならなかった。
ここで、浜崎あゆみの曲を聴くことが全くなくなったと言っても過言ではない。
浜崎あゆみの告白本『M 愛すべき人がいて』が発売されて思うこと
そうしてさらに時が経ち、2019年8月、浜崎あゆみが本を発売すると話題になっていた。
『M 愛すべき人がいて』(幻冬舎)著者はノンフィクション作家の小松成美氏。
あの有名なMという曲は、マリアのMではなくてエイベックス会長の松浦勝人のことだという。
他にも、彼との恋愛を通して作られた楽曲がたくさんあると紹介されていた。
ファンとは言わないが、あゆの楽曲が大好きで、あゆの楽曲を聴いて青春を過ごした自分にとってはびっくりする出来事だった。
「今更なんでだろう」「松浦さん側のご家族はどう思うのだろう」というのが率直な感想だった。
その一方で、「曲に対する印象」というのは、それほど変わらなかった。
「松浦氏の顔がよぎる」「名曲が汚れる」との声を見かけたが、私自身は不思議とそういった感情は起きなかった。
アーティスト、クリエイターは多かれ少なかれ、自分の体験・経験・感情をもとに作品を生み出すものだと思っていたので、
「あゆの楽曲の歌詞も、誰かとの恋愛があり、悩み苦しんだからこそ書けたもの」と思って聴いていたのが大きいのだろう。
聴き手として、自分のことに置き換えて共感して聴いていたので、その曲が何をきっかけに作られたかはそこまで私の問題ではなかったようだ。
一つの曲を、浜崎あゆみ目線と、自分目線と、ある意味切り分けができていることは正直自分でも驚いている。
こう思えるのはMという曲にそこまで思い入れがなかったからかもしれないし、
他人の色恋沙汰に全く興味がないだけなのかもしれない。
だからといって、この告白を肯定しているかといえばそうではない。
もし、生々しい暴露がされているのであれば、やはり暴露された側の家族は迷惑に感じるだろうし、どうしても悪いイメージでしか聴けなくなってしまう人もいるだろう。
曲を好きな人も、今後、「浜崎あゆみのこの曲が好きだ」と言ったら嘲笑されるかもしれない。カラオケでだって歌いにくいだろう。
真意はわからないが、浜崎あゆみとしての生き方に深く共感するファンがいてくれれば、それでいいと思ったのかもしれない。
テレビやネットでの批判が寄せられる中、小説の売り上げは好調で、ドラマ化も決まったようだ。
この一件で私は急に懐かしくなり、Amazon music unlimitedで浜崎あゆみの曲を片っ端から聴きまくっている。
高校生くらいから彼女の曲を聴いていなかった自分がまさかこのタイミングで再び曲を聴くことになろうとは。
どんぴしゃの世代で、思い出補正もあるかもしれないが、ああやっぱりいい曲だなあと浸ったり、ああ前はそんなにいいと思わなかったのにこの曲もいいな、なんて思ったり。我ながらだいぶ踊らされているなと思う。
もやもやする気持ちはあるが、痛烈に批判する気持ちも今のところはない。
小説を読んだら、この気持ちは変わるのだろうか。
今後の展開がどうなるか、そっと見守っていきたい